iso tank - 私生活

お寿司を食べに行きましょう

「回らないお寿司をみんなで食べに行きましょう」
俺「それはとても良い考えです」

~当日~

俺「そろそろお寿司の時間です。回らないお寿司は人生で二度目なのでとても楽しみです」
「緊急事態です。組織内のネットワークが全てダウンしました」
俺「残念ながらお寿司を食べに行くのが遅くなりそうです」
「作業員の到着まで1時間かかりました」
俺「どうやらお寿司は無理そうです」
「さらに2時間が経過しましたが原因はつかめません」
俺「おなかがすきました」
「お寿司が余ったのでパックして持ってきました」
俺「涙が出そうになりました」
「さらに2時間が経過しましたがどうにか復旧しました」
俺「家に帰って一人でお寿司を食べます」
「組織内のネットワークが全てダウンしました」
俺「わあしねばいいのに」

さらに4時間が経過してどうにか復旧しました

クマー

世間が熊くまクマと騒がしいので。

前から何回か記事にも書いてたけど、俺ん家の裏山には普通にクマが住んでます。
ヒグマじゃないよ。ツキノワグマ。

この間ソバ畑荒らされた。クマって基本的に雑食だから、食おうと思えば大抵の物は食えるっぽい。ソバでも鶏でも。

じゃあ殺さなきゃならないかっていうと、別に蕎麦畑荒らした程度で狩るほどのものでもないっていうのが、住んでる者としての考え。

あとこれは蛇足なんだけど、うちの地元の神社は熊野神社で、氏子は基本的に熊を殺したり食ったりすることが禁じられてる。
氏子じゃない、ヨソから来た人間なら問題ないんだけど、できれば地域内で熊は狩るな、食うな、ってことになってる。
でもこれはあくまで「たまたま」なのであって、別に熊が可哀想とかそういうことじゃない。

ちなみに隣の地域にも別の「熊野神社」があるけど、こっちの熊野神社は熊は積極的に狩れ、狩ったら解体して神社に奉納し、 肉は氏子で分けて盛大に酒盛りしろ、ということになっている。

俺は神道とか疎いけど、名前に「熊」入ってるからって熊に何かこじつけることはないんじゃないの、って思うんだけどそこはまあ。

蛇足長くなったな。
でもまぁ、今は俺ん家の山の蕎麦畑一枚だけで済んでるが、これがひどくなったらさすがに色々考えにゃなるめえ。

で、
それぞれにはそれぞれの社会があって、それぞれその枠組みの中に収まってりゃ何の不都合もないわけだ。 たまにこうやってはみ出たものが他の社会に図らずとも侵略してしまうものがいて、これがやれ殺すなだの殺せだのと騒がれる。

何がおかしいってそりゃおめえ、中には一生懸命先祖代々受け継いできた土地を守らにゃいかんって必死で銃担いで見回ってる人もいるだろうに、 そこに自分の安全な社会の中からピーチクパーチク鳴かれても、そんなものはさえずりでしかねぇよ。 かといってどこぞのグリーンピースだかシーシェパードみたく来られても困るが。

まああれだ、田園風景なんてのは当然のことながら人工物だ。それを「自然」とか言われると農家としては違和感がある。 山だって綺麗な山ってのは大抵枝打ち、下刈りしてるもんだ。本当に人間の手が入ってない山ってのは伸び放題だから大体は薄暗くて気味悪いぞ。富士の樹海とか。

で、シーシェパードだか緑豆だか熊森だか、ああいうのは何がしたいんだろうな。どこかほどよい「クラシック」がお好みなのか、それとも200万年ぐらい遡らないと気が済まないのか。

今年の田植えも終わった

俺の分だけな!

さなえさんの勇姿。
今年もさなえさん大活躍でした。

ウチで使ってる肥料。
有機大魔王(80)。

百姓も英語を扱えるという証左。
ひどいよね。ネーミングセンスとか。

春よ、来い

俺にも、この世の春が来たかもしんない。

「元気でやれよ!」――前田慶次

「花の慶次」より。

死とはなんぞや? これを考えない人はあまりいないのではないかな、と、最近になって、思うようになってきた。 自分だけが変人で、生きているのに死ぬことを考えてばかりいるのだ、と、考えていた。少し前まで。

近頃になって思うのは、自分の死とは、ということでなく「他人の死は自分にとってどういう意味を持つのか」だ。 葬式に参列することが多くなった、そういう年頃になった。また祖父が他界したりもした。

こういうことを書くときでも、自分はどうにも、「マンガ脳」で、そのマンガの受け売りなのだが、こういう言葉がある。

「死」とは、その人との関係がそこで終わることではなく、故人と自分の「新しい関係」がそこからはじまる、ということである。

死は、彼我の新たな関係のはじまりであって、ひとつの通過点なのだ。

だからなのかもしれない、「花の慶次」、あくまでフィクションなのだが、死に行く人に、前田慶次は、笑って、こう声をかけた。

「元気でやれよ!」

最期の別れで、祖父にこう声をかけた人がいた。

「またな」

そこで終わりではないのだから、そう声をかけられるのかもしれない。

だから自分もこう声をかけたい。

「お元気で」