「心中の手記」より抜粋
毎朝は私をいつも違う瞳で見下ろし、声にならないおはようを口にする
それをさも毎日同じであるかのように毎朝を見つめる私がふと毎日を見返すと、それはまったく違うと気づき、 私にとって私を成し私事を為すために私のために一つとして同じ毎朝は無く、ゆえにこのように毎朝という語句を用いることは誤りであるような気がして、 しかし校正するには私の心はとても気怠く私自身もまた気怠く何よりも惰性を好み無事無病無災であることに安堵する。どうしようもない。
ところで。気持ち変わらぬまま家を出て今日の朝もまた毎朝と変わらぬ朝であると信じ唯々道の上を行くと、 最近道の上よりかは少々目線を高く木々や空を見上げている私自身の心境の変化に、最近驚かされる。
父はかつて私に、この風景を美しいと思ったことはない、この風景に誇りを持つこともない、ただこの農業という職業にのみ誇りがある、 と言って聞かせてくれた。そのことをふと思い出し、私はおかしくなってしまったのだろうかと変化する自分自身に戦々恐々としてしまった。
この地にいながらにして私は異邦人となっている。この地にいることただそれだけのことを第三者的観点をもって美化することにつとめ、 またこの地にいることただそれだけの事実を希釈しようとしている。私の脳はそれをそう見ようとするように変化してしまっていた。
しかし見れば見るほどに緑は世界は色鮮やかに見えてきて、それにつれて青白い空は唯々空っぽに。 鮮明なる紺碧と空虚なる蒼白のコントラストがまた素晴らしいとそう感じるのならばそれは悲しくも以前の私とはもはや違う私というものになっているという事実で、 何にせよ一度進んだものをまったく同じになぞりながら元の位置に戻るということはないのだから、その事実を受け容れるように私はそうするように努めた。
さて。一日も終わり帰途につくと、またも目がいつもとは異なる場所へ赴いていることに気づく。 ふと、毎朝がいつも違う朝なのは私がいつも違う私になっているせいであって、それは朝だけに限らず昼も夕暮れもまた夜もいつもと違うように私の目には映っているのだと思った。
私は日一日として同じ私ではない。私の視点観点も日一日として変わり続けているというのであれば、 まるでそれを毎日すべて同じものとみなし毎日を過ごしていた私は今まで如何に勿体無いことをしていたのか。私は猛省しなければならなかった。
一生は一度である。一年は一度である。季節は一度であるし、一日もまた一度である。つまり私はそのことをすっかり見過ごしていた。
私は漫画ではないしまたゲームでもない。それらは楽しいし、時として生きがいをくれたり学ばせてくれる。 それでもそれと私は切り離しておくべきだったのだ。私は気を抜きすぎていた。それゆえに感受し近似し融合せんとしていたといえる。
しかし漫画やゲームがなにも悪ではないし私の過失の原因となったわけではなく。私はやはり私であるがゆえにこのような体たらくを見せたのだ。 私には日一日としてなにがしかの変化がある。私以外のあらゆるものもまた。さてしかし、変わらないのも事実であるし辛いものが苦手であることは如何様にもならない。
私はまた変わることができるだろうか